「集団的自衛権」を言い換える
2014-05-15


一昨日、東京新聞特報部の電話取材を受けた。「集団的自衛権」をどう言い換えれば誰にでもわかるようになるか、という質問だった。たしかに「集団的自衛権」というと、何やら抽象的な話になる。これでは井戸端で議論というわけにもいかないだろう。いったい何のことなのか、分かりやすくする必要はある。

 そこで、取材を受けた皆さんが何と答えたかは14日付けの東京新聞の「こちら特報部」で紙面になっている。そのときのわたしの話を少し敷衍しておこう。
 
 「集団的自衛権」ということの中身は要するに、日本が直接攻撃されなくても、いわゆる同盟国が攻撃を受けたときには、助けに行って一緒に戦いたいという話だ。日本が攻撃されるときには助けてもらうから、同盟国が攻撃されたときはこっちも助けるべきだ。ひいてはそれが日本を守ることになるから、と。それがこんな訳のわからない術語で言われるのは、「戦争放棄」を謳った日本国憲法でも「自衛権」は否定されていないはずだから、その「自衛権」の延長でこれに何とか理屈をつけて「権利」として認めさせたいという意図かあるからだ。

 それを一般理論風な言い方にする。だが、具体的に考えたとき、日本はアメリカしか同盟国(トモダチ)がいない。戦争の後遺症で、近隣諸国をみな「敵」に回しているからだ。だから、同盟国といったらアメリカのことだ。ということは、「集団的自衛権」というのは、ぶっちゃけて言えば「アメリカの戦争を手伝う権利」、ということになる。アメリカ以外の戦争なら、同盟もないから「自衛」にならない。「日本の国益」(対立構図を作るのに便利な言葉だ)がかかっているなら、「集団的」にやる必要もない。

 たしかにアメリカは、世界中に軍を展開してもう手が回らないしお金もない。だからアフガンでもイラクでもその他でも、日本に手伝わせたかった。今でも半分はそう思っているだろう。アメリカは世界に対する軍事的な影響力を維持したい。けれども、その「平和」を享受する国は応分の負担をせよというわけだ。ただしそのとき、アメリカは日本が独自の軍事力を展開することを望んでいるわけではない。あくまでアメリカ軍の手足となって働く軍隊が欲しいというだけだ(小泉時代の日米安保のガイドライン等はその方向――自衛隊の米軍との「一体化」で作られている)。

 ところが「私」が決めたがる安倍首相は「私が指揮する兵力」を欲しがっている。そしてその兵力は戦争をすることのできる軍隊でなければならない。おまけに安倍はその「私」が日本国家を体現しているかのように振舞っている。そしてアメリカにダメだと言われても靖国に参拝する。だが、そういう安倍の求めるような日本軍(靖国に体現される「殉国」の精神をもつ日本軍!)を、アメリカは求めているのではない。

 むしろそれは迷惑なのだ。安倍政権のやり方は中国や韓国と対立して東アジアを分裂させるが、中国はいまなアメリカの世界統治の重要な「パートナー」であって、国債もいちばん買ってもらっているし、アメリカは中国とこじれたくない。だが、安倍の日本は対中関係をどんどん悪化させながら、日米安保をかざして「同盟国アメリカ」に抱きついてくる。アメリカにとっては迷惑千万といったところだろう。

 要するに、アメリカが日本の軍事力に期待するのは、その世界統治に奉仕(肩代わり)する手駒なのだが、安倍とその仲間が「交戦権」に道を開くことで、第一に考えているのは尖閣問題に集約される日中対立なのだ。アメリカが「集団的自衛権」を支持していると言っても、まずそういうたすきの掛け違いがある。


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