カズオ・イシグロの新作『クララとお日さま』
2021-04-28


子供のパートナー用として販売されるAIフレンドの話。どうやらこの作品世界(近未来?あるいはオルタナ世界?)では、「優秀」でありたい(親がそうしたい)子供は「向上措置」(遺伝子操作)を受けるらしい。それがうまくいかないと病弱(不具合)になる。そんなジョジーという女の子のサボートのために(あるいは欠損を埋めるために)買い与えられるのがクララだ。今ふうに太陽光を糧として「生きて」いる(『私を離さないで』のクローンとは違う)。

クララがどういうふうに「新型製品」として作られたのかは分からない。ディープラーニングで環境世界・人びとへの対応にみずから適合化する段階までは作られているようだ。クララはその理解適性が高いようだ。その能力によって、ジョジー、その母親、友人リュックとその母親、ジョジーの父親等々の関係のなかで、ジョジーを守りその生を豊かにする(?)役目を練り上げながら(たぶんそこにはアルゴリズムはない)、ジョジーのいる世界の媒介的役割を深めてゆく。けれども太陽光(エネルギーではなく光だ)で「生きて」(「機能している」とは言うまい)いるためか、陽光を燃料以上の、存在の恵の源とみなしていて、それが太陽信仰にまでなるようで、ジョジーを「救う」ためにその功徳(効能ではなく)を発揮させる。この点で、このAIロボットはカルト的なのだ。そしてジョジーを決定的に救う(「向上措置」の失敗を癒す)と、ジョジーはクララのサポートなしで自分の生を生きてゆくようになる。「ミッション・コンプリート」(『私を…』では明示されていた)。クララのミッションとは、自分を必要とした女の子が、自分なしに生きてゆけるまで支えることだったかのように。あるいは周囲にとっては、「代わり」としての自分が無用になるまでに人びとの関係の綻びを埋め合わせする。いわばAF(人工友だち?)としての自己の無化、あるいはサクリファイス。そして最後は、自分が使命を果たしたことに充足しながら、廃品置場で、クララがこの世に出る媒介を果たした「店長」の訪問を受けて、もはや「物語」は尽きる。

 作家にとっての冒険は、この機械的製造物に「生きた」主観をもたせることだったはずだ。冒頭から語りはAFクララだ。それは「物語」が成立するほどには十分にできているし、そこから見える世界も、感覚の学びのプロセスもそれらしく描き出されている。いささかアニメーション風ではあるが。「不思議」は、自分の生成過程を知らない(それにはまったく意識が向かない)クララが、初めから店のショーウインドーに立ち、外界にしか志向をもたない意識を展開してゆくことだ。その意識は「自己」に回帰することがない。つまり「反省(リフレクション)」がない。しかし周囲を観察し、標定し、推理し、それがクララの「意識」を作ってゆく。つまり「自己」のない意識、けっしてエゴイズムにならない、その能力が高いのだ。

 200年前のメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』や、100年前のカレル・チャペックの『ロボット』は、「自己」を持ってしまい、そのために前者は悲劇的な破綻の物語となり、後者は叛乱と破滅を引き起こす。だが、現代のAFクララには自己がない。あるとしたらそれは、自己という形をとらない存在への「信」、太陽光への祈願だけだ。それがクララを「人間らしく」している。


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