フランス市民350万人は何を表明したのか?
2015-01-14


今日(13日)、某新聞と某テレビ局の報道担当からフランスの事件についての問い合わせがあった。この機会に見解をまとめておこうと思う。
 
 シャルリ・エブド襲撃事件は「表現の自由」に対するおぞましい侵害だといわれる。民主主義の根幹に関わるこの「権利」が非道な「テロ」の犠牲になったことに抗議して、フランスは国民的なマニフェストを行った、と。だが、そうなのだろうか?
 
○表現の自由

 これについてはフランス革命で共和政を作り出したフランスでは、民主主義の根幹として重視される。権力や権威を笑いものにする戯画の伝統は、ラブレーの『カルガンチュア物語』とかモリエールの喜劇の精神を視覚化・大衆化したものだと言ってよい。一九世紀にはドーミエの戯画があった。それはフランスの市民文化の伝統ではある。

 シャルリ・エブドのムハンマドをネタにした戯画は、宗教的権威を狙ったものではあるが、それが西洋社会で「戯画」たりうるのは、イスラームが原理主義と結びつけられるかぎりでのことである。それは一般のムスリムにとって、二重に不愉快なものとなりかねない。まず、自分たちがムスリムだというだけで警戒されるということ、それにムスリムには預言者を冒涜する伝統はないのに、西洋風にそれを笑いものにする習慣に馴染め、と言われるに等しい。

 宗教的権威を笑いものにして「解放」を表明するというのは、人間イエスが同時に神であるという、神と人間の二重性を仕込んだキリスト教社会の独特の展開の結果であって、それが普遍的な「開明」を意味するわけではない。

○「わたしはシャルリ」?

 今回の事件に対して、ただちに民衆の怒りと抗議が広範に広がった。その反応が、直接の標的となった週刊紙への同情として表れ、「わたしはシャルリ」の標語が巷にあふれたが、それは必ずしも無条件の「表現の自由」に対する共感の表れとはかぎらない。

 フランスの市民はすでに長らく社会分裂の不安にさらされていて、それが今回のような暴力の激発として現実化したことに、多くの人びとが反応したのだと見るべきだろう。

 社会分裂にはふたつの主要な要因がある。ひとつはいわゆる移民の統合問題、もうひとつはEUの経済統合の圧力(新自由主義による社会解体)だ。その二つに対して「美しいフランスの伝統」の保持を掲げる国民戦線が支持を広げており、去年のヨーロッパ議会選挙では、ついに第一党になった。それは、潜在的な反ユダヤ主義を含み、かつイスラーム系移民の居場所を狭めてゆく。そしてその事情はいずれもナショナルな枠を超えるもので、つねにイスラエルの動向や中東地域の情勢とも連動する。

 そんな中で、フランス社会で疎外された移民二世が、中東情勢に感応して武装コマンドとして「テロ事件」を起こすという危惧が、絵に描いたように実現してしまった。その標的となったのが、数年前からイスラーム世界を挑発してきた戯画紙だったということだ。

○共生への意志

 事件の直前に出版された人気作家ウエルベックの新作『服従』が、フランス社会のイスラーム勢力への近未来的「服従」をテーマにしているということで、読まれる以前にベストセラーになってしまったという事情も、一般的心理をよくあぶりだしている。

 この事件に抗議して、11日、パリのレピュブリック(共和国)広場を中心にして戦後最大といわれる大市民集会が行われた。「わたしはシャルリ」がその共通の標語になった。けれども、みんなが戯画を支持していたわけではない。実際、「わたしはシャルリ、だが別の仕方で」といった留保つきのパネルもあったし、「わたしは殺された警官のアフメド。シャルリはわたしの信仰と文化を笑いものにしたが、わたしはシャルリがそうする権利を守るために死んだ。」という表明もあった。それが実情を物語っている。


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