『自発的隷従論』ちくま文庫版について
2019-07-27


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Amazon(これについての問題はいまは置いて)のリストで、わたしの関わっている本(著者、訳者、監修者 etc.)はふつうネトウヨのけちつけ以外はあまりコメントがついていないのですが、この本には30近いコメントがついています。それはひとえに、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシの原テクストのインパクトによるものでしょう。この古い小さなテクストが現代の日本でこれだけの好評をえたことをたいへんうれしく思っています。訳者で詳細な訳注と解題を用意された山上浩嗣さんの篤実なお仕事も報われたことでしょう。
 
 ただ、少し残念だと思ったのは、この本の刊行に「監修者」として関わったわたしの「解説」がまったく的外れで無意味だ(「蛇足なので一点減」:安富)とか、「監訳者独自の見解を、無関係な表象(「戦争」など)と関連させて、ジコチュウで一方的に語っている」とか、果ては「翻訳者の上に君臨するものとしての「監修者」が存在し、その監修者が、翻訳の栄誉をむしりとるかのごとく語っています。まるでボエシの仮説「自発的隷従」が、この本を出版する小さなサークルにおいても、存在する証明のように。」(柴田)といったような文言が、恥ずかしげもなくしたり顔で書き込まれていることです。
 
 沖縄の辺野古でデモにいったり座り込んだりする人たちに、よく「日当をもらっている」という根も葉もない中傷が浴びせられます。しかしそうしたデマ中傷を口にする人たちの多くは本気でそう思っているようで。なぜなら、自分たちがヘイトデモをするときにはどこかから資金が出ていて、動員に日当が出ているからでしょう。だから、警察に手荒く扱われたりごぼう抜きにされたりする座り込みの人たちが、ただで来るわけがない、ゼッタイに日当が出ているに違いないと思うわけです。このように、人に対する中傷は、逆に自分のふだんの心根を写し出してしまうことが多いのです。そういうのを「ゲスの勘ぐり」と言います。
 
 『明かしえぬ共同体』(ブランショ、何も共有しない者たちの結びつき、明かすべき共通利害などもたない者たちの協労。この本もちくま学芸文庫で出ています)を旨としているわたしは、監修と翻訳と編集部との間に、役割分担があってもヒエラルキーがあるなどとは思っていません。それでも、外からはそう見えるとしたら、この本の出版に関してはそれを甘受する(どうにでも受け取ってくれ)ことにした、というに過ぎません。
 
 事情の大筋は「解説」に書いたはずですが、安富氏などは「西谷氏は、本当に本文を読んで解説を書いたのだろうか?」(これが『東大話法』?)などと宣っておられるので、よく分かるように事情を少し説明しておきます。
 
 エティエンヌ・ド・ラ・ボエシのこのテクストはフランスではよく知られた古典で、2000年代に入って大学入学資格試験のテーマに採用されたりもしています。しかし日本ではごく狭い専門家(とくにフランス文学・思想関係)にしか知られておらず、翻訳も1960年代に出た筑摩世界文学大系に他の著作家のものといっしょに紹介されていた程度でした。しかしわたしは、このテクストは2000年代の日本でこそ読まれるべきだと思いました。そこに近代以降の思想的枠組みに囚われていない視点からの、権力機構の「不易」のあり方が示されていると考えたからです。
 
 幸い、共通の知人のいたルネサンス研究の山上浩嗣さんが、同好の士とともに研究会をして訳文と注解を作り、大学の紀要に発表していたのを知りました。そこでわたしは山上さんに会い、この原稿を出版しないかともちかけたのです。山上さんはこのテクストにたいへん愛着をもち、訳者解題に示されているように子細な研究をしていたのですが、それはあくまで古典研究としてであって、このテクストが今日の出版事情のなかで(売れない人文系出版の困難)出せるとは考えていなかったのです。
 

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