「立憲デモクラシーの会」声明についての私見
2020-02-23


折から、NHK/ETVの「100分de名著」で、東大の阿部賢一さんがワーツラフ・ハベル『力なき者たちの力』を紹介・解説している。ハベルはチェコの暗黒時代(六八年〜八九年)に演劇活動などを通じて市民の対抗文化の導き手となり、体制転換後の大統領に選ばれた人物だ。

 その番組の三回目に「権力はアプリオリに(はじめっから)無罪である」という命題が紹介された。ハベルはこれを「ポスト全体主義」の特質だとして言っている。ポスト全体主義だろうがポスト・モダンだろうが何でもいいが、むき出しの権力がけっして咎められることがないということを言っている。裏返せば、何でもできる、「全能」だといってもいい。ただし、神のように積極的に「全能」だというのではない。そうではなく、統治の権力が本来なら必要とする「正統性の試練」を免れるということだ。

 権力は昔から、それが権力であるために「正統性」を必要としてきた。なぜ、そこを統治できるのかということの理由であり根拠である。その根拠をもつことで権力は正統化される。人びとはそれに従わざるをえなくなるのだ。

 昔はそれが血縁だったり、神の権威だったりした。近代にはそうしたものが排除され、民意に従ったとされる法秩序が権力に正統性を与える。選挙で選ばれて構成される議会が法を作り、その法秩序の枠内で権力機構が構成され(内閣、行政機関)それが統治を担うことになっている。

 ところが、いまの日本のアベ首相は、違憲の疑いのある法案の逸脱を指摘され、「私の言うことが正しい、だって私は総理大臣なのだから」と当たり前のように言う(2015年のことだが、基本的に変わらない考えのようだ)。そうして議論の余地のある重要事項は議会を通さず「閣議決定」する。内閣で決めたらそれはそのまま国の決定であるとして通用させる。この発言は、「私アベ」の恣意的な考えや無体な思い込みが、「総理大臣」という正統性を必要とする権力行使の役職と、アベ氏自身のなかで癒着して区別がなくなっている、ということを表している。

 しかし、そのことが理解できないアベ氏は、それを受け容れない者たちを政敵として排除するだけでなく、官僚たちの役割はアベ内閣に盲従して支えることだとし、人事権を握って信償必罰を徹底、逆らわない(あるいは私利私権のために利用する)者たちだけを取り立ててきた。そのため今では(だいぶ前からだが)、自民党の議員たち、官僚機構だけでなく、あらゆる役所の出先にまで「忖度」という言葉が行き渡り、言われてもいなのにアベとその取り巻きの意向を先取りして、事を処理するようになっている。そうして、アベ氏が「私の言うことは正しい」(あるいは「私も妻も関与していない、関与していたら総理大臣を辞める」)と言うと、国会で追及されて官僚たちはアベの言ったことがウソにならないように、彼の「正しさ」をでっち上げるために、総力を挙げるのである。

 それ以前に「特定秘密保護法」なるものを作り、あらかじめの隠蔽基盤は作ってあったが、その後、安保法制時の自衛隊派遣日記問題から、森友問題、加計問題における国有財産私物化疑惑、そして最近の桜を見る会問題にいたるまで、官僚たちは公文書の隠蔽、改竄、破棄(虚偽)、果てはもう最初から記録を残さないという工作に邁進している(そこで不正の実務をやらされることに耐えきれず自殺する者が出ても、このアベ無罪化マシンは無視して動き続ける)。


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