2020-12-27
私たちが小学校の頃は、年に二、三度、学校で映画の上映会があった。もちろん、文部省推薦映画とお墨付きのあるものだ(その頃の文部省は多少ともまともに「教育」に向き合っていた)。筑豊炭田で父を失い極貧を生きる在日少女の手記を映画化した『にあんちゃん』(今村昌平)などもその機会に観た。ほとんどは忘れてしまったが、その後何度も思い出し、いまでも印象を刻んでいるのは『ランプ屋おじいさん』という映画だ。いや、後で知った新実南吉の原作通り『おぢいさんのランプ』だったかもしれない。
孤児の巳之助が初めて都会に行ったとき、ランプの街並みに魅せられ、ひとつ安く譲ってもらって以来、町の行燈屋に恨まれながらランプを売り、店を構えるまでになる。それで繁盛して生活も安定するが、あるとき町に電気が引かれるようになり、ランプはまったく顧みられなくなる。巳之助は悔しさのあまり、区長の家に火をつけようとするが、マッチ代わりにもってきた火打石では火がつかない。古い道具は役に立たないと思った己之吉ははっとして憤りから醒めた。その夜、仕入れていたランプをみんな池の端の木に吊るし、石を投げて割るが、それも途中でやめて、街に出て新しい商売を始める。
倉の中からランプを見つけて遊ぶ孫をつかまえて、そんな昔話を聞かせるおぢいさんがその己之吉だったという話だ。
文明開化の時代に、目ざとく灯油ランプを売って財をなした者が、それを駆逐する新しい電気を憎むが、自分が成功したのもじつは新規の技術が普及すると見込んだためだったと気づくのだ。映画のメッセージは、子供の記憶の中で、高度成長期の花形企業(文字どおりナショナルの)松下電器の創業者松下幸之助とも重なった。文明開化と技術革新によって進歩し変わる世の中にどう向き合うかという教訓がそこに生まれる。
ただ、若い新実南吉(二十九歳で没している)の老いた主人公は、時代に従うべく電器屋になるのではなく、灯りの革新とは縁のない(明かりのもとで読まれるわけだが)本屋になる(そのことは今回確認するまで忘れていた)。
この話が近年とみに脳裏に去来するのは、「おぢいさん」と呼ばれるにふさわしくなった私自身が、技術革新と時代の波にいま思想上で逆らおうとしているからである。ひとことで言えば、デジタルIT化の趨勢に「生きたからだ」を押し立ててさからおうとしているのだ。その趨勢は、「この道しかない」と言われた(そして事実世界がそれを受け入れている)「新自由主義」のレールと不可分である。
別の言い方をすれば、ドゥルーズ以来のマシニックな欲望の解放の理論と、認知科学を思考に置き換える科学主義への、時代遅れと言われもする「無駄な」抵抗である。このことを、「人工知能に鮫の皮」と表現したら(春秋社ウェブ連載『疫病論』)、昔から信頼しているある知人に「それでは誰にも分からない、理解されない」と言われた。その表現の発想自体が「おぢいさん」のものということでもあるだろう。言いたかったのは、コロナ禍を奇貨として加速し(ドゥルーズ的加速主義!)世界を舐め尽すデジタルIT化の津波に、鮫の皮をあててワサビのように擦り下ろすということだ。
そんなことをすれば、かつては「ラッダイト運動」(資本主義化する世界の最初のテロリスト)とバカにされたことだろう。だが、核エネルギー技術と遺伝子工学によっていわゆるテクノロジーと人間との関係が根本的に代わり、人間がヴァーチャル次元に呑み込まれつつある現在では、「技術への抵抗」しか人間の生き延びる道はないのである。
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