2021-01-31
つまり、「フェイク」を引き金になされた「解放」だが、それをキューバの人びとは映画(アニメ)によって繰り返し表現し、フェイクをイメージ化し、それが民衆の間に広まって共有されてきた。そして半世紀を経て、今度はアメリカという「自由」の帝国主義からの「解放」がカストロやゲバラによって指導されたキューバ人自身によってなされた。「キューバ人」とは古い帝国が混成で作り出した多様な由来をもってこの島に住むようになった人びとのことだ。しかしその「自立と解放」は、資本主義対社会主義(共産主義)という非妥協的な対立図式に押し込められ、冷戦構造の下でまさに「エピセンター(震央)」として核危機の震源にさえなりながら、「自由世界の盟主」アメリカの巨大な尻に出口を塞がれて、長く窒息を余儀なくされる。それから半世紀以上、冷戦が終わり、やがて世紀が変わっても、キューバはカストロ指導の下、「地上の楽園」として「世界」から隔離され、「進歩」や「発展」とは無縁に、時間が止まったような「永遠」の日常を生き続けることになる。
とりわけ「都会」ハバナは、とり残された50年代アメリカの、生きた廃墟のようなたたずまいを見せている。「革命」以来、アメリカと切り離され、世界の「発展」から取り残されて、モノとしては「進化」をやめてしまったのだ。そんな「永遠のパラダイス」に、それでも人びとは世代を重ねて生きてきたし、生きている(堕罪前の「楽園」のアダムとイヴが、永遠の神の国でどんな暮らしをしていたかについては、その昔、聖アウグスティヌスがあつく蘊蓄を傾けているが…)。
そのキューバが、グローバル市場に開かれると、もはやツーリズム以外に売るものが、商品化できるものがない。富裕国からやってくる観光客は(カメラマンやシネアストも含めて)、「文明の化石」のなかに生きる人びとを好奇心で見るという形で、この「楽園」の無時間的生を「消費」して去ってゆく(「インバウンド」だ)。「最後の秘境」を見に来るそんな人びとの来訪は、ここで「永遠」を生きてきた・いる人びとの生とどう交錯するのか。ここでは「無時間」(進歩・発展のなさ)が人びとの「歴史」だったのだが、「歴史の終り」を世界で生きる人びとには、ここに他でもない「ユートピア」(どこにもない場所、ただし「失われた楽園」)を求めて、享楽のためにやってきた。
シネアスト(とりわけドキュメンタリスト)は「現実の証言」のためにここを訪れるのか。いや、その仕事も意図も、ときに志も、基本的にはツーリストの立場と変わらない。富裕な世界から来て、「楽園」を生きる人びとのイマジネーションのリアリティや倒錯、あるいはすっかり根をなくしたかもしれない欲望や希望の飾らない生の相に出合おうとするだけである。しかし、映画とは何だったのか。それはもうひとつの「リアリティー」を多少とも産業的に作り出す。その「リアリティー」は想像的なものだ。イマジネーションの産物は、綿菓子よりも淡い、降ってすぐに消える雪のようなものだが、それでも生きられる「現実」であり、生の時間とともに消えてゆくイマジネーションを外部化して「永続化」さえするのが映画である(中国語では「電影」という)。
その映画は機械装置とフィルムという支持体(いまはハードディスクか)をもつことで、繰り返し人びとの前で上演され、同じイマジネーションを生きさせ、主観形成とその共有を可能にする。そこで想像界は制度的機能をもつことになる(一般にはそれを他の媒体と併せてメディアと呼ぶ)。そうなると映画は、共有されるもうひとつの「現実」を、ファンタズムとして作り出すことになる。
キューバの「独立」とは、そんな集団的ファンタズムとして生れたのだとしたら、この「どん底」が「パラダイス」であり、「歴史」がここでは「無時間的」であったとしてもおかしくはない。映画そのものがそんな二重化・三重化、多重露出を作り出す。
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