★グローバル資本主義の崩壊とその「出口」
2020-03-13


「想定外」のかたちで、われわれは今、グローバル資本主義の崩壊に立ち会っている。「この道しかない」と言われて導かれた世界システムはいまもんどりうって滝つぼに落ちようとしている。しかし、この先は、滝つぼを収めて流れる奔流やがて大河ではない。ここは滝壺ではなくすでに海の断崖だからだ。

 マーク・フィッシャーは死ぬ必要はなかった。「資本主義のリアル」には終わり(出口)があったのだから。その点では「暗黒啓蒙」の「エグジット(脱出)」派のほうが目先が効いていた(イーロン・マスクの火星計画)。
 ほんとうは「資本主義」のタームで考えない方がよい。そう考えると経済について資本主義枠を絶対化することになるからだ(マルクスは近代経済学の枠組みに沿ってしか考えず、それを基準に史的唯物論とエンゲルスが呼んだものを構想した)。そこから抜けるにはカール・ポランニーの発想が必要。

 そして「資本主義」を経済学の問題と考えてはダメ。いわゆる深層心理の問題をリビドー経済という観点で捉えようとしたのはフロイトだが、フロイトはエントロピー理論を下敷きにしていた。人間的な欲望のバックに自然エネルギーの傾向を重ねて見たのだ。そこからエロスとタナトス、とりわけ「死の欲動」の考えが出てくる。

 「資本主義」と呼びならわされるものは、計測化できると見なされた「市場」を「見えざる手」によって調整させる。その「見えざる手」とは利潤の生まれるからくり(剰余価値)ではなく、「利己的」なものと見なされた諸個人の欲望であり、その欲望追及の「自由」である。その欲望は市場の仕組みと結びついて「金銭欲」つまり「儲けること・稼ぐこと」に特化される。だからどんなことをしても「富豪」は成功者であり、「価値」であり尊厳なのだ。市場の「成功者」がアイドル(崇拝される偶像)になる。

 これがアメリカ経済システムであり、「新世界」の資本主義であり、それは一九七〇年代以降世界規範となって(チリの九・一一以降)「新自由主義」と呼ばれるようになった。弱小国での「惨事便乗」と先進国における「社会の抹消」によってである。

 だから資本主義は、経済の問題ではなく欲望の問題である。
 その欲望には伝統がある。西洋キリスト教社会の伝統だ。西洋による「世界化」によって、この考え方の枠組みは普遍的=世界的なものとなった。最初に言明したのはアウグスティヌスである。それが宗教改革によって鋳直され(ルターもカルヴァンもこのキリスト教思想の定礎者に立ち戻る)、ライプニッツによって世俗世界と結節され、パスカル等を通して「欲望」と「自由」と「市場」の三位一体を近代思想として編み上げ、それと同時に社会に制度的に実現されてゆく。そうして形成されたのが、やがて世界を覆う牢獄となってゆく「資本主義システム」である。

 いまや「この道」はその自己破綻の道であることが明らかになった。破綻は批判やオルタナティヴなアイデアによってではなく、ウイルスというまったく非社会的なもの(生物ですらなく、予定調和的自然界からも外れた要因)によって引き起こされた。疫病の克服は資本主義形成期から社会編成の枢要事であり、フーコー流に言うなら「統治」のパラダイムだった。その克服・征服と市場の世界化とは軌を一にしている。しかし市場のグローバル化とともに、何かが変異するかのように疫病は質を変えてゆく。そしてとうとう出現した今回のウイルスは――というより、ウイルスに意図があるわけではないから、ウイルスによって、と言うべきだろう――ウイルスによって、グローバル経済はその基礎構造そのものを自壊させなければならなくなったのである。


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