ラスコーの「踊り」――ダンス・舞踏とは何の表現なのか?
2020-11-03


一九四〇年にフランス南部でふとしたことから発見されたラスコーの壁画は世界に衝撃を与えた。長い洞窟の広間や回廊にそって広がる多彩で生き生きした動物群は、悠久の時を忘れさせるように、私たちの眼前に迫ってくるからだ。

 文明は進歩しているといわれる。この間の美術の歴史をみてもそうだ。近代絵画から、現代アート、そしてデジタル化も取り込んだ多様な表現の「発展」があった。だが、ラスコーを初めとする先史時代の洞窟絵画は、そんな「進歩」の観念を吹き飛ばす。二万年という時を超えて、ピカソはそこに圧倒的な「同時代人」を見たことだろう。

 それでも、ある「距離」ないしは「越え難さ」があるとすれば、現代の絵画表現には描く者の意匠が感じられるのに、洞窟絵画にはそれが想定できず(だから何のためかも分からない)、イメージだけが、イメージそのものが現出しているといことだ。

 人間はそれを描く「手」でしかなく(手のイメージはある)、それは二万年の見えない時の闇に消えてなくなっている。その時の厚みが、透明なアクリル板のように、イメージとわれわれとを隔てている。

 洞窟の絵画が地中で眠っていた二万年の間に、外の世界ではいったい何が起こったのか?とりわけ絵を描いたり他の方法で表現したりする人間に何が起こったのか?

 そう問わせるのは、よく知られているように、あれだけ豊饒な動物たちの姿で溢れかえるラスコーの洞窟に、それを描いたはずの人間たちの姿がまったくないからだ。唯一の例外は、洞窟の奥深く、空洞が下に落ちる「井戸」と呼ばれる場所の天井に、つまり深淵の上の天空に映されるようにして、矢を受けはらわたを出した瀕死の水牛の反撃を受けたとおぼしき、倒れた人物が図案のように刻まれていることだ。これは描かれたとは言いがたい。というのは、驚くべきリアリティーで迫ってくる動物群のイメージに比して、これは明らかに描くことを知らない者が刻みつけた棒書きの図柄のようにみえるからだ。楕円の胴に二本の足がつき、両手も開いて、片手の傍らに槍が置いてある。そして何とも奇妙なことに、その頭はくちばしのついた鳥としか見えないのだ。この唯一の人物像とおぼしきものは、人間として描かれてはいないのだ。ただ、性器らしきものが立っている。

 これはどうしたことなのか?
 戦後の復興事業のようにして『世界の絵画』シリーズを企画したスイスの美術出版社スキラは、その第一巻を発見されて間もない『ラスコー』に充て、解説執筆をジョルジュ・パタイユに委ねた。バタイユはこの絵画について、あらゆる目的論的(何のために描かれたのか…、宗教儀礼か…)解釈を斥けて、「遊び」の観点から、つまり人間の無償の集団的営みとしてのみ受けとめ、その痕跡の現代にまで及ぶ時空を超えた「脱自的コミュニケーション」(内的体験)に身を開いた。芸術として扱ったのではなく、イメージという人間の根源的体験との関わりとして受けとめたのだ。

 そのバタイユもこの「井戸」の場面に目を留めて、その「意味」に近づこうとして行きついたのは、この図案化された人間は、生き物たちの世界を豊饒な「聖なる」世界として描き出した人間たち、その世界からじつは締め出されて避けがたく「俗」である人間たち(それを対象化するから)が、それでもこのイメージの次元に関わっていることを「聖なる世界」のヘソのようなところに刻み込んだ、「描く人間」の署名の刻印なのだと解釈した。それは「エロチシズム」にも似て、人間が死を賭して近づき、死の彼方と通う場面であり、だからこそ、井戸の天井に、表象の裏返しのように図案化され、それも瀕死の姿で、人間でなくなる(そして「聖なる世界」に近づく)という異形の姿で、なんとか生き物の世界の奥まった片隅に刻まれているのだ、と。


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